屋久杉銘木工芸
屋久杉とは
屋久杉は、植物学的には日本固有種である本土の杉と同種で、屋久島が生育の南限となります。一般的な杉の寿命は500年が限度とされていますが、屋久杉は2000年から3000年といわれる樹齢の大木が確認されており、その寿命が桁外れに長いことが特徴です。
屋久島は花崗岩で出来た島であるため表土が極めて少なく、また山々が常に季節風を受けるため“ひと月に35日雨が降る(林芙美子「浮雲」)”と表現されるほど降雨が多いところです。このため屋久杉は、栄養分の少ない厳しい環境で自らを守るために、普通の杉の6倍といわれる多くの樹脂分を蓄えながらゆっくりと成長します。
屋久杉は主に標高1000メートル前後の高地に分布し、地元では樹齢1000年以上の天然木を「屋久杉」、1000年未満を「小杉」、植林された杉を「地杉」と呼んで区別しています。
製品の特長
家具や工芸品としての屋久杉の特徴は、その華麗な杢目の美しさが特徴ですが、時には、光明、虎目、泡瘤などの独特の陰影と色合いを持った素材があらわれます。これは厳しい環境に耐えるため特に多くの樹脂を蓄積したり、真っ直ぐに伸びることが出来ず無理な形で育ったりした結果が、製材の過程で偶然に現れてきたものです。
また、虫眼鏡を使わなければならないほど緻密に詰まった屋久杉の年輪は、俗に一寸100年と言われていますが、その最大の特徴を活かした輪切素材では1000年を超える歳月を生きた証をそのまま確認することが出来ます。一般的に木を輪切りにすると、乾燥するにつれて中心に向かったひび割れが生ずることがありますが、弊社では5年10年という長い時間をかけてゆっくり乾燥させて割れの拡大を防いでいます。
屋久杉の歴史
江戸時代の斧跡がそのまま残る屋久杉の切り株
屋久杉利用の記録は古く、16世紀後半(安土桃山時代)に、大隅正八幡宮(鹿児島神宮)の改築や京都方広寺の大仏殿建立の際に屋久杉材が運ばれた記録が残っています。
江戸時代になると、屋久島出身の儒学者泊如竹が、島民の困窮を救うべく、屋久杉の伐採を島津家に献策し、1640年頃から山岳部奥地での伐採が始まりました。
屋久杉は船材、建築材など様々な用途に利用されましたが、多くは平木と呼ばれる屋根材に加工され、平木は島民にとっては年貢の代わりとなっていました。
島津家直轄となっていた屋久島は、その多くが明治初期の地租改正で国有地となり島民による利用が制限されました。このため島の経済的困窮が問題となり、国有林の返還を求める訴訟も起こされる事態となりました。
1921年、判決により国有林化が決定、同時に地元経済や島民の雇用も考慮した山林局(現林野庁営林署)による屋久杉の本格的伐採が始まり、屋久島一周道路、林道、搬出用のトロッコ等も整備されました。
1993年の世界自然遺産への登録を契機として自然保護の機運が高まる中、各種保護区以外の国有林にある天然屋久杉はほぼ切り尽くされ、2001年には生木の伐採搬出が終了し、以後は江戸時代から残る切株等(土埋木)の搬出のみとなりました。
2010年代に入り林道周辺の搬出可能な土埋木も徐々に枯渇し、山岳部奥地からのヘリコプターによる集材も2016年に終了、鹿児島市の県銘木市場での屋久杉材一般競争入札は2019年3月をもって終了することとなりました。
屋久杉工芸作家を紹介
弊社の製品は、現在その殆どが垂水市の工房で制作されています。
制作者 田之上光雄さんは、平成26年から4年連続で「全日本こけしコンクール」で入選するなど、木工の各分野で50年以上の経験を積んだ熟練の匠です。
工芸作家 田之上 光雄さん
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昭和29年鹿児島県垂水市生まれ。
工房で数々の屋久杉工芸品を製作。全日本こけしコンクールで多数受賞している。
主な受賞歴
- 平成17年 全日本こけしコンクール日本商工会議所会頭賞
- 平成26年 全日本こけしコンクール文部科学大臣賞
- 平成27年 全日本こけしコンクール白石市観光協会長賞
- 平成28年 全日本こけしコンクールエフエム仙台賞
- 平成29年 全日本こけしコンクール日本商工会議所会頭賞
製作の様子
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道具
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